僕が歩いた街 - ウィーン ①楽聖を訪ねて

旅行記
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 1814年9月1日、ナポレオン戦争によって崩壊した国際秩序を回復させるための会議がはじまった。後に帝国宰相となるクレメンス・フォン・メッテルニヒが主催し、利害の衝突から議定書締結まで9ヵ月を要したこの会議をウィーン会議と呼ぶ。19世紀のヨーロッパにあって絶大な影響力を及ぼしていたオーストリア帝国の首都は、今日では音楽の都とも呼ばれている。

 ウィーンがそう呼ばれる所以は、歴史的な音楽家達が過ごした街だからである。21世紀の現在でもその名残を色濃く残している。

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中央墓地

ウィーン中央墓地 第2門

 ウィーン国立歌劇場前からトラムにのって20分程度でウィーン中央墓地に到着する。広大な墓地には隣接する駅がいくつかあるが、第2門(Zentralfriedhof 2.Tor)で降りて墓地に入り数分歩くと、名誉区にたどり着く。ウィーンで没した音楽家たちが眠る場所だ。

(左)ベートーヴェンの墓 (中)モーツァルトの碑 (右)シューベルトの墓

 もっとも目立つ場所にある碑はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのものだ。神童として幼少より天性の才能を発揮してきたこの音楽家は、多くの称賛を浴びながらも晩年は借金を繰り返し、35歳という若さでこの世を去った。1791年のことである。遺体は郊外の共同墓地に埋葬されたが、詳しい場所は分かっていない。したがって、このウィーン中央墓地にあるモーツァルトの碑は厳密には彼の墓ではない。

 モーツァルトの碑を背面から支えるように、2つの大きな墓石がその存在を主張している。向かって左側が音楽史の寿命を数百年縮めたとも言われるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、右が多くの歌曲を残したフランツ・ペーター・シューベルトの墓である。

ベートーヴェンの墓

 ベートーヴェンとシューベルトは親子ほども年が離れている。シューベルトは1797年、モーツァルトの死から6年後にウィーン郊外で生まれた。この時、ベートーヴェンは20代後半で、すでに数々の名作を世に送り出していた。
 しかしながら、両者の没年は1年しか違わない。ベートーヴェンは1827年3月に死去し、翌28年11月にシューベルトもまたその生涯を終えたのだ。

 シューベルトはベートーヴェンを尊敬していた。彼は偉大な楽聖の葬儀に列席し、友人たちと酒場で「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と杯を掲げた。よもや自分がその人に、しかも僅か1年でなると思っていただろうか。シューベルトの遺体は、家族や友人たちによって、彼が敬愛したベートーヴェンの横に葬られた。

シューベルトの墓

 このモーツァルト、ベートーヴァン、シューベルトを囲むように、多くの音楽家達がこの地に眠っている。

 多くのオペレッタを作曲し、ウィンナ・オペレッタの父とも呼ばれ、指揮者・歌手としても活躍したフランツ・フォン・スッペ。1895年没、享年76歳。

 毎年世界中から注目を集めるウィーンフィルによるニューイヤーコンサートのアンコール曲としても知られる「ラデツキー行進曲」や、数多くのワルツを作曲した「ワルツの父」、ヨハン・シュトラウス1世。1849年没、享年45歳。その子にして、オーストリア第二の国家とも呼ばれる「美しく青きドナウ」を作曲したヨハン・シュトラウス2世。1899年没、享年73歳。

 あるいはベートーヴェンを崇拝していた新古典派の巨匠、ヨハネス・ブラームス。1897年没、享年63歳。

ブラームスの墓
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サリエリの悲劇

 この名誉区から離れ、墓地を囲っている壁沿いに歩くと見知った名前を目にすることになる。
 ベートーヴェンの弟子であり、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」のウィーン初演でソリストを務めたピアニスト、作曲家、そしてピアノ教師であったカール・ツェルニー。日本では彼のファミリーネームを冠した練習曲集が日本中のピアノ教室で使われ、子供たちを苦しめているのではないだろうか。1857年没、享年66歳。

ツェルニーの墓

 神童モーツァルトを扱ったアメリカ映画「アマデウス」のもう一人の主人公、アントニオ・サリエリ。イタリア出身の宮廷楽長として、欧州楽壇のトップに君臨した音楽家である。映画の中で彼はモーツァルトと対立し、その結果モーツァルトを死に追いやり、最後には精神病院で余生を過ごしているが、これは多分に脚色されたフィクションである。
 彼は当時、最高峰の音楽家の一人であり、教育者としてもその才能を発揮した。ベートーヴェンやシューベルト、ツェルニー、そして次代のエースであるフランツ・リストが彼に教えを受けただけではなく、ベートーヴェンの交響曲初演の副指揮者を任されたこともある。

 映画の中でも単純な敵役として描かれているわけではない。サリエリは映画の登場人物の中で唯一、モーツァルトの才能を絶対的に認めることができた音楽家だった。並みの音楽家では理解できない、神に愛された天才の力を自分だけは分かってしまう。
 映画における彼の悲劇は、まさにそれであった。幼少時からすべてを捨て、音楽のために生きてきたサリエリもまた天才であった。しかし、彼の才能はモーツァルトのそれを理解するところまででしかなかったのである。天才であるがゆえに、モーツァルトとの差に気が付いてしまうサリエリ。そこから生まれるどす黒い感情がやがてモーツァルトを死に追いやった、というのが映画の大筋である。

 サリエリによるモーツァルト暗殺説は当時から流れていた噂ではあるが、楽団における従来の主流派であったイタリア派と台頭してきたドイツ派の対立の中で、イタリア人であるサリエリが標的にされて風説が流布されたと言われている。1825年没、享年74歳。

サリエリの墓
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知ってもらう必要はない

 中央墓地ではなく、さらに郊外のグリンツィング墓地にも、ある音楽家が眠っている。ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督として人気を博したグスタフ・マーラーだ。今日では歌曲・交響曲の大家として知られている。1911年没、享年50歳。

 マーラーの墓はこれまで紹介してきた楽聖たちのものとは趣が異なる。じつにシンプルなのだ。彼は生前、 「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」 という言葉を残している。彼の意志に基づいて、墓石には生没年や生前の業績は一切刻まれていない。ただ、グスタフ・マーラーという名があるのみである。

マーラーの墓

 また、この墓地にはマーラー最愛の妻、アルマ・マーラーの墓もある。作曲家としての才能を持っていた彼女だが、マーラーと結婚してからは自らの作曲活動を控え、夫を献身的に支えた。夫がそれを強く望んでいた。夫婦愛は次第に冷えていった。マーラーは晩年、フロイトによる精神分析診断を受けた後、この18歳年下の才能あふれる妻との関係修復に取り組んだ。しかし、その僅か数か月後にマーラーはこの世を去った。
 未亡人となったアルマは再婚、再々婚と恋多き女性として生き、第二次世界大戦後の1964年、亡命先のアメリカで没した。享年85歳。彼女は今、マーラーの隣ではなく、同じグリンツィング墓地内にある二番目の夫、ヴァルター・グロピウスの墓の横に眠っている。

アルマの墓

偉大な音楽家達の墓には死後数十年、あるいは百年以上がたった今でも、世界中の人が訪れている。人々は彼らの墓に花を手向け、彼らと対話する。ウィーンは過去の音楽家と現在の我々を繋ぐ楽都なのだ。

つづく

オーストリア共和国
ウィーン
訪問時期:2015年12月

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